UFO!?
「道の駅小国」ゆうステーション
元国鉄宮原線肥後小国駅跡にミラーガラスを外周に用い、小国杉のトラス工法で、逆円錐台形の建物が昭和六十二年(1987)に出現した。「道の駅小国」ゆうステーションという。
小国人が鉄道の会議に参加したのは明治二十六年の事だった。それから大正時代にかけて、先人や北里柴三郎博士の努力で、昭和二十九年、念願の貴社が小国駅に姿をみせた。昭和十二年から十五年ごろの線路建設に際し架けられたコンクリートアーチ橋には、資材不足のため竹が使われた。
竹筋コンクリート製の鉄道橋梁群は、全国で3ヶ所といわれている。旧国鉄宮原線に架かる7つの竹筋橋は、平成十六年三月に国の登録有形文化財になった。
先人たちの努力の結晶だった宮原線も自動車の波には勝てず昭和五十九年に廃線。現在、バスターミナルや小国の観光・特産・温泉場の情報発信スポットとして、来町者が必ず足を止める場所になっている |

道の駅ゆうステーション
新しい木材の利用法、立体トラスト工法。黒っぽい外観は、216枚の特殊ミラーガラスで覆われている。 |
組み木の天井におどろく 小国ドーム
小国町の木造建築群の中で最も代表的な一つ。昭和六十三年(1988)、天井部分に小国杉小径木五六〇二本を使用した木造トラス工法、屋根はステンレス張りでドーム状に建てられている。
設計者は「道の駅小国」ゆうステーションと同じ葉祥栄氏。建築基準芳情の様々な問題をクリアしての建設に三年を要した。
小さな町の大きな木造ドームとして、スポーツやコンサート、各種イベントに利用されている。 |
5602本の木組みの天井は圧巻
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堂々とした鎮守の杜 小国両神社
阿蘇神社の主祭神健盤龍命の孫神、火の宮・高橋の宮とその母神雨宮を主祭神としている。
キリシタン大名大友宗麟の重臣田原紹忍や四国大洲城主戸田民部らに焼き討ちされたが、江戸時代に入り、門前に家並みができるようになり、元禄二年(1689)神殿も再築された。
幕末、幕府や全国各藩では財政が厳しくなると領内の寺院で「富くじ」が始められた。この小国郷でも藩の許し(富講御免)を得て文政元年(1818)、「富くじ」始められ十年間に76回も興業された。 |

秋の大祭・9月の市
(10/16〜18)は、一大行事 |
モコモコト砂が踊る、心も躍る
ケヤキ水源と水神様と富くじ六花園
小国郷の地下は、阿蘇溶岩が50メートルの厚さある。その下を北外輪山や久住の伏流水が流れ、川沿いの溶岩の割れ目から清水が湧き出している。町内で最も湧水量の多いのがケヤキ水源辺りである。
昔、富くじが行われていた頃、当たった人の日課が、ここの水神様と神社にお参りしていた。お礼に悪路だったこの辺りに石畳を敷き感謝されたという。
ケヤキ水源で手を洗って水神様に自然への感謝を祈り、小国両神社で当たりを祈願し、鏡が池の恵比寿様に三億円をお願いして、宝くじを買うというコースがある。富くじ六花園という公園もあり、ゆっくりできる。 |

けやき水源と水神様 |

川の音、小鳥のさえずりが心地いい |
悲恋の物語 鏡ヶ池
貴族文化が栄えた平安時代のこの小国郷に貴人の恋の物語が残っている。
醍醐天皇の孫娘小松女院は、清少納言の兄清原正高公と御所で恋に落ちられた。お小作と臣下の恋に、帝の怒りを受けることなり二人は都から、正高は豊後の国、小松女院は因幡の国と離される、恋い慕う小松女院は、侍女11人を従え、正高公探しの流浪漂泊の旅に出た。途中、祠のあるこの池に来られ、願いを込めて鏡を投げ入れた。一行が次に宿した下城では随行の乳母が亡くなり、墓標しとして植えられたのが国指定天然記念物の「下城の大イチョウ」という。その後の足取りは大分県玖珠の地で正高公に妻のある事を知り、絶望のあまり三日月滝に身を投じられた。
肌身離さぬ鏡は、女の宝。それを惜しげもなく池に投じて、恋人との再会を祈った姫と侍従の美しい心をいつまでも伝えたい。 |

千年の恋でも語らいますか |
天然記念物よ永遠に・・・
あみだ杉の館
江戸時代、社会の安定につれ小国両神社門前にも商家が並ぶようになった。金融のはしりとして積立て講が始められ、恵比寿講と呼ばれた。
(シンボルの恵比寿様は鏡が池の場所に祀られている。)
恵比寿講は、明治26年に発足した小国銀行と発展した。
その後内牧・高森・久住に支店を持ち、県北の有力な銀行となったが、太平洋戦争が激しくなり経済統制で他の銀行と合併、肥後銀行小国支店となった。
この建物は、昭和9年に建てられた物でモダンな建物として目を引き、平成12年まで小国郷の中心金融機関として利用された。
銀行移転後は、阿弥陀杉のモニュメントホールとして他用途に使われている。ホール中央の常設展示モニュメントは、平成11年の台風18号で倒れた黒渕の「阿弥陀杉」(国指定天然記念物)の一部をつかった彫刻家豊福知徳氏によるもの。 |
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たてとよこの構造(高さ4.5m) |
小国を統治していた 城山
南北朝時代、武家の政治か天皇の政治家と争われた戦いで、一時九州に逃れた武家方の将足利尊は、九州を傘下におさめたいと、天皇方だった阿蘇氏の支配下にあった小国郷に延元元年(1340)に軍勢を送った。小国郷の武士たちは、阿蘇大宮司惟澄の下に城を築き、これに迎えを討って破った。
豊臣秀吉の九州平定後、加藤清正は、重臣の吉村橘左衛門は、城山の城跡に館を建て小国を治めた。城山の下に家臣を住まわせた事から「殿町」の小字名が残っている。
江戸時代中頃、小国郷からも伊勢神宮へお陰参りが増えると宮原村の床屋三左衛門が有志と伊勢皇大神を迎え祀った。また、石の階段脇には小国八十八ヶ所の十一番札所お薬師様が祀られている。 |

大橋際から見える城山 |
芝居小屋から映画館 雄国会館
娯楽の少ない小国郷の人たちに芝居小屋を作ろうと、明治の終わりに地元有力者北里雄平氏が芝居小屋「雄国座」を建てた。当時、地方の芝居小屋として有名な筑豊の嘉穂劇場、山鹿の八千代座に負けない立派なものだったが、昭和14年の火災で全焼。
現在の建物は、勝久吉氏によって、昭和22年に「雄国館」として再建された。当時の名残りとして舞台下には人力による回り舞台の仕掛けが残っている。 |

今では文化ホール的存在 |
崇先尊租/慈聚庵と弘法大師
江戸時代初期まで、大友・加藤氏などの没落で多くの武士が小国に移り住んできた。その土着した武士の一人は、野に果てた先祖のために四つの祠を創り菩提を弔った。その後、子孫達が遠方からも訪れ先祖供養のために作ったのが、今に残る十三仏やお大師様。(四種庵はなまったもの)
この弘法大師像は小国郷に残る最も大きな石像で、長く信仰され香煙の絶えることがなかったという。
ここには小国八十八ケ所の八番札所観世音菩薩が祀られている。
4月22日・8月21日・11月18日の年3回、お接待がある。 |

香煙や花が絶えない |
小国の天恵風光を詠む 高浜虚子と笹原庭
小国郷には江戸時代から頼山陽・広瀬淡窓をはじめ多くの文化人が訪れた。明治に入り、北里柴三郎博士を筆頭に北里蘭など学者・文人を生み出し、県下でも小国郷の文学は水準が高いといわれた。
明治、大正、昭和と小国俳諧は連綿と続き、敗戦後の混乱期にも小国俳諧の中心的存在だった笹原芳介(俳号耕春)氏が、高浜虚子や高弟の高野素十を招いた。
この庭は、小国の代表的な旧家である笹原芳介氏が小国俳諧のために、昭和54年ごろ、国史跡庭園修復に定評のあった平岡繁夫氏を招き、山採りの朴・檪などを取り入れた回遊式庭園とした。
この庭園内と小国両神社境内に高浜虚子の句碑がある。
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説明板横の石が句碑 |
手足の治癒祈願 足手荒神
手足の衰えは21世紀の病気といわれる。この足手荒神は手足の神様といわれ、病気治癒祈願の足形・手形の板は耐える事がない。
江戸時代、細川藩の御用石工だった宮原の下城徳松が、手足の神様として有名な嘉島の足手荒神を迎え祀った。手足の病気に罹った人が手や足の形どった板に性別年齢を書いて病気治癒を祈願するといつか直っているという。 |
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小国郵便局前の崖の
わずかなスペースにある |